ワルシャワ滞在記2022
そもそも
2022年8月にワルシャワに滞在した時の様子。滞在中、隣国の戦争の影響は特に感じなかった。
ワルシャワはポーランドの首都で、ヴィスワ川中流のマゾフシェ地方に位置する都市。人口は約180万人。第二次世界大戦で破壊され、厳密に戦前の状態に再建されたヴィスワ川沿いの旧市街は、「ワルシャワ歴史地区」として世界遺産に登録されている。
ざっくりポーランド史
13-14世紀頃のワルシャワは、ポーランド全域を支配していたポーランド王国ピャスト朝を構成するマゾフシェ公爵領に属する街だった。14世紀後半にピャスト朝が断絶すると、リトアニア大公国と連合しポーランド・リトアニア共和国ヤギェウォ朝が成立した。16世紀後半にヤギェウォ朝が断絶すると、国王を貴族から選挙で選出する選挙王制が行われた。1587年に選挙で国王に選出されたジグムント3世が、クラクフから遷都しワルシャワはポーランド・リトアニア共和国の首都となった。
18世紀前半に北方戦争やポーランド継承戦争によって外国の侵攻・干渉を受けると、ポーランドは弱体化していった。18世紀後半にはロシア・プロイセン・オーストリアの三国によって3回にわたるポーランド分割が行われ、ポーランドは地図上から消滅した。
19世紀初頭にプロイセン軍を破ったナポレオンは、プロイセン領内の旧ポーランド領にワルシャワ大公国を建国した(実質的にはプロイセン領だった)。ナポレオンが没落すると、1815年のウィーン議定書によってワルシャワ大公国は消滅し、ロシア皇帝アレクサンドル1世の下でポーランド立憲王国が成立した(実質的にはロシア領だった)。その後、フランスの七月革命やヨーロッパ各地の諸国民の春の影響もあり、ポーランド人も独立を目指して度々反乱を起こしたが、独立には至らなかった。
1917年にロシア革命が勃発し、1918年に第一次世界大戦でドイツが敗北すると、ポーランド共和国として独立を果たし、ドイツ・オーストリア・ロシアから領土を回復した。
1939年、ヒトラー率いるドイツ軍の侵攻によりワルシャワが陥落し、ポーランドの西側はドイツに占領された。同年スターリン率いるソ連の侵攻により、ポーランドの東側はソ連に占領された。独立したのも束の間、ポーランドは再び分割支配されることになった。1944年、ワルシャワでポーランド国内軍と市民がドイツ軍に対して蜂起したが、ドイツ軍に鎮圧され多数の死者を出した(ワルシャワ蜂起)。
第二次世界大戦後のポーランドは独立を回復したものの、国内で共産主義勢力と非共産主義勢力が激しく対立した。最終的にソ連の支援を受けた共産主義勢力が優勢になり、1952年にはポーランド人民共和国が成立した。共産主義政権下で経済の停滞やインフレなどが続くと、労働者のストライキや民主化運動などが度々行われ、徐々に民主化へ向かっていった。
1989年に非共産主義政府のポーランド共和国が成立した。1999年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、2004年にヨーロッパ連合(EU)に加盟した。
スピンオフ
ワルシャワに到着
リスボンから飛行機に乗って18時半頃ワルシャワに到着。どうせフライトが遅延するだろうと見越して予約しておいた空港近くのホテルへ直行(そういうときに限って今回初の無遅延)。
空港に地下鉄がなかったので、タクシーで行くことに。事前にちょっと調べて所要時間10分程度でせいぜい1000円ぐらいかなという見積もりをもってタクシーに乗る。出発時にメーター的なものをスタートさせる様子がないので「あーよくあるやつだ、高めに請求されるぞ」と思ったが、せいぜい10分程度なのでボッタクられても大したことないだろうと思い、面倒なので黙認した。実際に10分程度で到着し、案の定言い値で請求してたが、せいぜい500円程度の上乗せだったので大人しく払った。
ホテルにて
さてホテルでチェックインをするもなぜか手続きに10分以上かかる。ようやく手続きが終わり「344」と書かれた&言われたカードキーをもらい部屋に向かう。エレベーターに乗って3階に到着すると301-317は左、318-342は右という標示が目に入り「ん?342までしかないやん!?」となった。念の為一通り歩いて見てたがやっぱり「344」は見当たらない。フロントに戻り「344号室って存在しますか?」と世にも奇妙な質問をする。確認してもらうと334の間違いだと判明。再び3階に上がり部屋に入るとやたら広く、キッチンも付いていて、机と椅子2セットとソファを備えたリビングダイニングと、ベッド2台を備えた寝室がある高級コンドミニアムみたいな部屋だった。そんないい部屋を予約した覚えがないので改めて予約アプリを確認すると、私が予約したのはやはりシングルルームで、アプリに掲載されている写真とも全然違う。もはやフロントに確認するのも面倒だったのでありがたく享受することに(ラッキー)。そういえばワルシャワは物価が安いと聞いていたのに宿泊予約時に宿泊費がやたら高かったのでおかしいと思って色々調べてみたところ、なんとエド・シーランのワルシャワライブ(2日間)と丸かぶりしていた。
市街地へ
2日目の朝。市街地へ向かう。タクシーも拾えず、電動キックボードのアプリはなぜか使えず、結局気温32度のなか最寄りの地下鉄駅まで30分かけて歩くはめになった。なんだかんだ(券売機が故障してたり色々あった)で地下鉄に乗って市街地に到着。プラットフォームも電車内も街中も日本に匹敵するぐらい静かで、人々が穏やかな感じがした。
ホステルにて
とりあえず荷物を置くために今夜宿泊するホステルへ向かう。ホステルに到着しチェックインを済ませ、スタッフから「これが28号室ベッド2番のルームキー」と言われ鍵を受け取る。部屋の前に到着しドアを開けようとするが鍵が挿さらない。見ると鍵穴に対して明らかに鍵が小さかったので、フロントに戻り「これは本当に部屋の鍵ですか?」とこれまた世にも奇妙な質問をする(This is a pen. みたいな例文もいつか使う日が来るかもしれない)。するとロッカーの鍵だけ渡されていたことが判明し、改めて部屋の鍵を受け取り解決した。この時点でワルシャワでチェックイン後一発で部屋に入れる確率は0%だった。
市街地
ズバビチェラ広場。ポーランド語は地名が難しい。
市街地中心部を南北に貫く大通り、マルシャウコフスカ通り。
マルシャウコフスカ通りとエルサレム通りの交差するワルシャワの中心部。
仮想通貨を現金化するサービスを街のあちこちで見かけた。
ハラ・コシュキ
2016年にリニューアルしたというモダンな市場ハラ・コシュキ(Hala Koszyki)。「hala」はポーランド語で市場を意味する。
ヴィスワ川
ワルシャワの中央を貫くヴィスワ川。
権と盾を手にした人魚の像。ワルシャワには人魚伝説があり、人魚は街の守護者とされている。
Elektrownia Powiśle
2020年にオープンしたヴィスワ川沿岸にあるショッピングモール。ワルシャワはモダンな建築が多い。歴史的にはそれほど意外ではない。
ミロフスカ公園
銅像はポーランドのボクシングの父と言われるフェリクス・スタム(Feliks Stamm)。数多くの著名なボクサーを育成した名コーチとして有名らしい。
ハラ・ミロフスカ
100年以上の歴史がある市場ハラ・ミロフスカ(Hala Mirowska)。野外市場と屋内市場がある。
ハラ・グヴァルディ
2017年にボクシングジムを含むスポーツ施設だった建物を改装してできたモダンなフード市場ハラ・グヴァルディ(Hala Gwardii)。
壁にはボクサーの写真、中央には卓球台と、スポーツ施設の名残が見られる。
ピンボールもあった。
文化科学宮殿
1950年代にソ連からの贈り物として建てられた、共産主義時代を象徴するスターリン様式の総合文化施設。最後のボスが住んでそう。
頂上に登ってみた。エレベーターがおそらく8つあるのに1つしか稼働していなかった。上から眺めた街は無機質というか地味で暗い印象を受けた。オフィスビルもホテルもショッピングモールも大きく目立つロゴは外資系企業ばかりだった。
文化科学宮殿周辺の街並み。
ズウォテ・タラスィ
ワルシャワ中央駅の隣にある巨大なエンタメ複合施設ズウォテ・タラスィ(Złote Tarasy)。ワルシャワはショッピングモールがやたら多い印象を受けた。
クラコフスキエ・プシェドミエシチェ通り
3日目の朝。ワルシャワで最も歴史ある通りの一つクラコフスキエ・プシェドミエシチェ通り(Krakowskie Przedmiescie)を散策する。
ポーランド出身の偉大な天文学者ニコラウス・コペルニクスの像。
17世紀にバロック様式で建てられた聖十字架教会。第二次世界大戦で破壊され後に再建された(大体そう)。ポーランド出身の音楽家ショパンの心臓(遺体はパリ)が埋葬されていることで知られる。
土曜日だからか人通りが少ない。
18世紀にバロックまたはロココ様式で建てられたヴィジトキ教会。
大統領官邸。ベルリンやプラハやローマでも思ったが、大統領官邸って割と誰でも近づきやすい場所にあったりする。もちろん警備する兵士はいたが。
17-18世紀にバロック様式で建てられたカルメル会教会。
ポーランドを代表する詩人アダム・ミツキェヴィチの像。
15世紀に建てられ18世紀まで何度も再建された聖アン教会。新古典主義様式のファサードが特徴的。
王宮広場
ワルシャワ王宮の前に広がる広場。戦後に再建されたワルシャワ歴史地区の一部。
広場で割と大規模なベトナム文化フェスが開催されていた。共産主義時代の東欧諸国にベトナムから多くの移民が流入した歴史があり、その流れでワルシャワにベトナム人コミュニティがあるらしい。街中でもベトナム料理店を多く見かける。歩いていたらベトナム人に(おそらく)ベトナム語で話しかけられたこともある。プラハでも同様の体験があった。
関連記事:プラハでチェコ名物を味わってみた
王宮
クラクフからワルシャワに遷都した国王ジグムント3世が増改築を施した旧王宮。例によって戦後に再建された。内部を見学してみた。
ポーランド出身画家ヤン・マテイコが描いた12点の連作『ポーランドの文明化の歴史』
ヤン・マテイコ『1791年5月3日憲法』
議事堂。
ヴェネツィア出身画家ベルナルド・ベッロットが描いたヴェドゥータ(風景画)。ヴェドゥータで有名な画家カナレットの甥にあたり、ポーランドでは彼もカナレットと呼ばれていたという。ポーランドの宮廷画家を務め、晩年をワルシャワで過ごした。
カナレットルームと呼ばれる部屋まである。素晴らしい。
玉座の間。
旧市街・歴史地区
第二次世界大戦で破壊され、厳密に戦前の状態に再建された旧市街・歴史地区。世界遺産に登録されている。
ワルシャワ聖ヨハネ大聖堂
14世紀にゴシック様式で創建された大聖堂。何度も再建され、現在はレンガを多用するのが特徴的なブリック・ゴシック様式が見られる。
旧市街広場
旧市街の中心に広がる旧市街広場。再建された建物が隙間なくびっしりと並ぶ。
剣と盾を手にした人魚がここにも。
バルバカン
16世紀に建てられた砦と市壁。
バルバカンの外側にも美しい街並みが続く。
ワルシャワ蜂起のモニュメント
1944年のワルシャワ蜂起に捧げられたモニュメント。
クラシンスキ庭園
旧市街の西側にある緑豊かな公園。
ノビ・シフィアト通り
ワルシャワで最も活気がある通りの一つノビ・シフィアト(新世界)通り。この通りを北に行くと、クラコフスキエ・プシェドミエシチェ通りを通って歴史地区までずーっと一直線でつながっている。
週末の夜は多くの人で賑わっている。
ホステルで出会った人々
アメリカのカリフォルニア州から来てポーランド全土を旅行しているという知性を感じさせるおばさま二人組。