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ハンガリーの歴史をまとめてみた

そもそも

ちょっとややこしいハンガリーの歴史をざっくりまとめてみた。

ローマ時代

2世紀頃ドナウ川西岸北側の「オーブダ」周辺に、ローマ帝国によってアクインクムという街が築かれた。アクインクムは属州パンノニアの中心都市として発展し、ドナウ川東岸のコントラ・アクインクム(「ペシュト」)にまで街が拡大した。

異民族の侵入

パンノニア地域は、4-5世紀頃には西進してきたフン人の支配下に置かれ、6-8世紀頃には同じく西進してきたアヴァール人の支配下に置かれた。8世紀にはアヴァール人を撃退したフランク王国の支配下に置かれた。9世紀には西進してきたマジャル人が勢力を拡大し、さらに西進したマジャル人は955年レヒフェルトの戦いでオットー1世率いる東フランク王国に敗れると、パンノニア地域に定住し国家統一を進めた。

ハンガリー王国の成立

マジャル人たちは大首長を中心にキリスト教に改宗していき、西暦1000年頃に大首長イシュトヴァーン1世がローマ教皇から戴冠を受け、正式にハンガリー王国が成立した。以後、大首長の一族が統治する最初の王朝(アールパード朝)が約300年間続いた。この頃の首都はブダペストではなく、ブダペストの北西40kmほどに位置する街エステルゴムで、戴冠もエステルゴムで行われた。

モンゴル軍の侵攻

13世紀にバトゥ率いるモンゴル軍の侵攻を受け、ハンガリー王国内の諸都市が大きな被害を受けた。それによって防衛強化の必要性を感じた国王ベーラ4世は「ブダ」の丘に新たに石造の城塞と王宮を建設し、ブダペストが実質的にハンガリー王国の首都となる。

オスマン帝国とマーチャーシュ1世

14世紀頃キリスト教世界の脅威となっていたオスマン帝国に対し、ハンガリー王ジギスムントの下で十字軍を編成し派遣したが、1396年ニコポリスの戦いで敗北した。オスマン帝国は1402年に勃発したティムール朝とのアンカラの戦いで敗北したため一時的に勢力が低下した。その後オスマン帝国が1453年にビザンツ帝国を滅ぼすと、再びオスマン帝国の脅威が高まった。1458年に国王になったマーチャーシュ1世はオスマン帝国の脅威に備えて常備軍を整備し、中央集権化を進め、ルネサンス文化を奨励し、ハンガリー王国の全盛期を築いた。一時はウィーンを占領するなどしてハンガリー王国の最大版図を実現した。マーチャーシュ1世が死去すると、新たな国王に対して貴族や農民が反抗して国内が混乱し、ハンガリー王国は弱体化していった。

分割支配

1526年、ハンガリーに侵攻してきたスレイマン1世率いるオスマン帝国軍に対し、国王ラヨシュ2世の下で迎え撃つもモハーチの戦いで敗北した。ラヨシュ2世は後継がいなかったため、オーストリア・ハプスブルク家が王位継承権を主張し、それに反発したオスマン帝国軍がウィーンを包囲した(第一次ウィーン包囲)。結果的にハンガリーはオーストリア・ハプスブルク家とオスマン帝国に分割支配され、その状態が130年以上続いた。ブダペストはオスマン帝国の支配下に置かれ、浴場施設が建設されるなどオスマン帝国およびイスラーム文化の影響を受けた。

オーストリア・ハプスブルク帝国

1683年、第二次ウィーン包囲が起こると、オーストリアはオスマン帝国からハンガリー全域を奪取し、ハンガリーはオーストリア・ハプスブルク帝国の支配下に置かれた。マリア・テレジアの治世下(1740-1780)に、ブタペストでは大規模な再建が行われた。

諸国民の春

1848年、ウィーンで三月革命が起こると、ハプスブルク帝国支配下の諸民族が一斉に自由を求めて立ち上がった(諸国民の春)。ハンガリーでもコシュートを指導者として革命が勃発した。結果的に革命は失敗に終わり、ハンガリーはオーストリアの属領として専制的な直接統治が行われた。

オーストリア=ハンガリー帝国の成立

オーストリアは、1866年に勃発した普墺戦争でが敗北すると、翌年にアウスグライヒと呼ばれる一連の政策転換を行い、ハンガリーの独立を形式的には認め、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。

ブダペストの成立

1873年、「オーブダ」「ブダ」「ペシュト」の3地区が統合され、現在のブダペストが成立した。それに伴いブダペストの近代的な都市計画が進められ、アンドラーシ通りや地下鉄の建設などが行われた。この頃、周辺地域から流入したマジャル人が、オーストリアの支配下で流入したドイツ語系住民に代わって、住民の大半を占めるようになった。またユダヤ人も多数流入し、大規模なコミュニティを形成した。

屈辱のトリアノン条約

第一次世界大戦が勃発し、オーストリア=ハンガリー帝国が敗北すると、ハンガリーは分離独立を達成したものの、トリアノン条約によって領土の3分の2(チェコスロバキア・ルーマニア・ユーゴスラビアなど)とその領土に残った人口の3分の2(約2000万人)を失った。失った領土に残ったマジャル人は、それぞれの国で少数民族として暮らすことになった。このトリアノン条約によって大きな屈辱を味わったハンガリーは、次第に右傾化しナチス・ドイツとの協調路線を歩むことになる。

第二次世界大戦

第二次世界大戦が勃発すると、ハンガリーは日独伊三国同盟に加盟して枢軸国の一員として参戦した。国内では、ファシズム政党である矢十字党がナチス・ドイツと連携しホロコーストが行われた。ブダペストはソ連軍の攻勢によって大きな被害を受けた。

共産主義時代

戦後のハンガリーはソ連の占領下に置かれ、1949年には共産主義政権のハンガリー人民共和国が成立し、ソ連の影響下で計画経済が行われた。1956年にブダペストで大規模なデモが行われたが、ソ連軍に鎮圧された。その後はカーダール・ヤーノシュの下で、グヤーシュ・コミュニズムと呼ばれる比較的穏健な政策が行われた。

民主化

1989年、ハンガリーで民主化に向けた大胆な政策改革が行われ、中立国オーストリアとの国境も解放され、10月23日に民主主義国家ハンガリー共和国が成立した。

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