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チェコの歴史をまとめてみた

そもそも

ちょっとややこしいチェコの歴史をざっくりまとめてみた。

モラビア王国建国

元々ロシア南部に居住していたスラヴ民族が中欧に大移動してきて、やがて9世紀に「モラビア王国」を建国したのが現在につながる国の始まり。モラビア王国全盛期には現在のオーストリアやハンガリーやポーランドの大部分も統治下にあり、西隣にはフランク王国(または東フランク王国)があった。

神聖ローマ帝国の支配下へ

モラビア王国は、10世紀初頭にマジャール人が東方から進入してきた影響で滅亡し、生き残った人々のうち、ボヘミア地方へ移動し東フランク王国の支配下に入った集団をチェック人(チェコ人)、マジャール人の支配下に入った集団をスロヴァキア人として区別する。ちなみにさらに西進したマジャール人は、955年レヒフェルトの戦いでオットー1世率いる東フランク王国に敗れ、パンノニアに後退して定住することになり、後にハンガリー王国を建国する契機となった。ちなみに勝利したオットー1世はキリスト教世界の守護者として評価され、後に神聖ローマ帝国初代皇帝として戴冠される契機となった。

チェコ人は、東フランク王国(または神聖ローマ帝国)の支配下でプシェミスル家を中心にボヘミア公国を形成していた。ヴァーツラフ1世(後にチェコの守護聖人聖ヴァーツラフとなる)は聖ヴィート大聖堂の前身となる聖堂を建設するなど、チェコ人のキリスト教化を推進した(が反対派の弟に暗殺された)。

ボヘミア王国成立

プシェミスル家ボヘミア公オタカル1世は、神聖ローマ帝国の有力諸侯シュタウフェン家に取り入り、1212年に皇帝(兼シチリア王)フリードリヒ2世からチェコ人の王の称号とボヘミアの聖職叙任権を認められた。これによってボヘミア王国が成立し神聖ローマ帝国の有力な諸侯の一つとなった。この頃からゲルマン系住民のボヘミア王国への移民がみられるようになった。

オタカル2世の盛衰

フリードリヒ2世の死後(次期継承者コンラート4世も死に)シュタウフェン家が断絶し、1254年に神聖ローマ帝国が約20年間の大空位時代に突入した。それに乗じて皇帝の座を目指したボヘミア国王オタカル2世は、移民を奨励し国内のインフラを整備するなどして勢力を拡大し、ついにはオーストリア全土を支配した。神聖ローマ帝国の最有力諸侯となったオタカル2世だったが、強権すぎる皇帝の出現を恐れた他の諸侯が、当時スイス地方の弱小領主だったハプスブルク家のルドルフ1世を新皇帝に選出した(弱小だったから)。

これに納得がいかないオタカル2世は、アーヘンで行われた新皇帝の即位式をボイコットした。新皇帝ルドルフ1世はそれを理由にオタカル2世を神聖ローマ帝国から追放した上に追討軍を派遣した。1278年マルヒフェルトの戦いでオタカル2世は戦死し、ボヘミア王国はオーストリア全土を失い領土がヴルタヴァ川流域だけとなった。ちなみに勝利したハプスブルク家は本拠地をスイスからオーストリアのウィーンに移し、後に神聖ローマ帝国内の最大勢力に成長することになる。

カレル1世が築いた黄金期

ボヘミア王国は1306年プシュミスル朝が断絶すると、当時の神聖ローマ皇帝ルクセンブルク家のハインリヒ7世の息子ヨハンをボヘミア王として迎え、ルクセンブルク朝となった。ヨハンの子のカレル(カール)は1346年にローマ王またはドイツ王(諸侯によって選出された神聖ローマ皇帝だがローマ教皇に正式に戴冠されていない状態)カール4世となり、父ヨハンが百年戦争従軍中に没したため、翌年1347年にはボヘミア王(カレル1世)となった。ボヘミア王としては、プラハ城を増改築したり、旧市街の周りに新市街を建設して市域を拡大したり、カレル橋を建設したり、神聖ローマ帝国初の大学であるプラハ大学を創設したりして、帝都プラハの繁栄を築いた。カール4世は1355年に無事教皇インノケンティウス6世から戴冠され、1356年に神聖ローマ帝国の帝国基本法となる「金印勅書」を制定した。

ヤン・フスの宗教改革

一方その頃、ヨーロッパ全体に目を向けると、百年戦争、ペストの流行、アヴィニョン捕囚、教会大分裂(大シスマ)などの大問題が同時多発しており、教皇およびローマ・カトリック教会の権威が低下しつつあった。そんな中オックスフォード大学の神学教授ジョン・ウィクリフが、聖書に基づいた信仰に立ち帰ることを説き教会を批判する宗教改革運動を始め、彼の思想が大陸そしてボヘミア王国にも及ぶことになった。プラハ大学ではウィクリフの支持派と反対派が対立したが、ウィクリフ支持派のヤン・フス(プラハ大学学長にまでなる)を中心に教会批判が高まった。当時の難解なラテン語の説教が普通だったが、フスはチェコ語を用いたわかりやすい説法で大衆の人気を獲得していた。この頃に彼が著述したチェコ語の説教書が後にチェコ語の正字法になったと言われている。また、このようなフスの活動によってチェコ人の民族主義意識も高まっていった。

1414年のコンスタンツ公会議にてフスは異端認定され翌年火あぶりの刑に処された。1419年フス派の貴族や農民が反乱を起こし神聖ローマ皇帝軍と15年以上にも及ぶ激しい戦争(フス戦争)になった。

王家がポーランドそしてオーストリアへ

1471年ボヘミア王国とハンガリー王国はポーランドのヤギェウォ家のヴワディスワフを迎えて国王とした(母方の血縁関係による)。1526年にヴワディスワフの息子で国王のラヨシュ2世が、オスマン帝国軍とのモハーチの戦いで戦死すると、両国の王位は王妃マリアの兄、ハプスブルク家のフェルディナント(カール5世の弟で後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)が継承し、ボヘミア王国とハンガリー王国はオーストリア・ハプスブルク領となった。

ルドルフ2世の貢献

ルターの宗教改革が活発化すると、フス派の中の穏健派が残っていたボヘミア王国でもプロテスタント(ルター派)が増えていった。1556年に神聖ローマ皇帝となったフェルディナント1世は、対抗宗教改革に着手した(つまりプロテスタントには比較的寛容だった)。続く国王マクシミリアン2世もルドルフ2世もプロテスタントに寛容だった。特にルドルフ2世(在位1576-1612)は政治に関心がなく、帝都を約200年ぶりにプラハに移し、プラハでの学問や芸術の発展に貢献した。学問分野では天文学者のティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラーが、芸術分野ではティントレットやアルチンボルドなどがルドルフ2世のもとに集まっていたという。

プロテスタント弾圧

しかし、幼少期からイエズス会の教育を受けたフェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王になると、帝都をウィーンに移し、プロテスタントに対する弾圧が始まった。それに反発したプロテスタント教徒がプラハ城に押しかけて役人を窓から投げ出す事件が起きた(200年ぶり2度目)。その事件がボヘミアの反乱の発端となり、また三十年戦争の発端となった。ボヘミアの反乱は1620年にフェルディナント2世側の軍隊に制圧され、ボヘミア王国におけるプロテスタントは禁止された。

時は流れて諸国民の春

ボヘミアはその後長らくオーストリア・ハプスブルク帝国の一地域として支配され続けたが、工業の発展にともない次第に中産階級が成長していった。

1848年にウィーンで三月革命が起こると、ハプスブルク帝国支配下の諸民族が一斉に自由を求めて立ち上がった(諸国民の春)。プラハでも歴史家のパラツキーを中心に市民がチェコ語とドイツ語の平等や自治権などを要求した。急進派による市民蜂起が起こるも軍に鎮圧され失敗に終わった。

オーストリア=ハンガリー帝国成立

1867年普墺戦争に敗北したオーストリアを排除する形で北ドイツ連邦(ドイツ帝国の前身)が成立すると、オーストリアは皇帝フランツ=ヨーゼフ1世のもとでアウスグライヒ(妥協)を発表し、ハンガリー王国を独立国家と認めオーストリア=ハンガリー帝国となった。チェコも青年チェコ党などを中心にハンガリーと同様の待遇を要求するも認められなかった。

チェコスロヴァキア共和国成立

第一次世界大戦が勃発し1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が敗北すると、独立運動の指導者マサリクを中心にスロヴァキアとともにチェコスロヴァキア共和国(第一共和国)として独立を果たした。しかし、チェコ人とスロヴァキア人の間に政治的または経済的格差があったため、国内での民族対立をはらんでいる状態だった。

ナチス・ドイツの侵略

独立したのも束の間、ナチス・ドイツが台頭すると、ヒトラーはチェコ内でドイツ系住民が多いズデーテン地方の併合をめざし、それをミュンヘン協定によって国際社会に認めさせると、そのままチェコ全土を併合した。

チェコスロヴァキア社会主義共和国成立

第二次世界大戦の終結後チェコスロヴァキアは自由選挙で選ばれたベネシュ大統領の下で、1947年にアメリカが打ち出したマーシャルプランの受け入れを一旦表明したが、ソ連の圧力によって受け入れを撤回した。翌年1948年ソ連の影響を受けた共産党がクーデターによってベネシュ政権を打倒し共産党政権を成立させた。ナチス・ドイツから脱したのも束の間、実質的にソ連支配下のチェコスロヴァキア社会主義共和国となった。同年、独立運動の指導者だったマサリクは窓から突き落とされて殺害されたとされている(330年ぶり3度目のプラハ窓外放出事件)。

プラハの春

1968年に共産党第一書記ドプチェクの指導下で自由化運動が展開されたが、ワルシャワ条約機構軍に鎮圧された(プラハの春)。

チェコ分離独立

1989年に一連の東欧革命の中でチェコスロヴァキアにおいても、プラハやブラチスラヴァで市民が連日大規模デモを繰り広げた結果、共産主義一党独裁体制が解消された(ビロード革命)。その直後からチェック人とスロヴァキア人の間で民族主義が台頭し、連邦解消が議論され始めた。結果的に1992年の議会で分離が決定し、1993年1月をもってチェコスロヴァキアの連邦が解消された。

(おまけ)チェコの宗教

チェコ国民の半分以上が無宗教だというのはあまり知られていない。

参考:チェコ共和国の「無神論」

参考書籍

物語 チェコの歴史 森と高原と古城の国

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