ナポリの歴史をまとめてみた
そもそも
ちょっとややこしいナポリの歴史をざっくりまとめてみた。
古代ギリシャ
紀元前8世紀以降にギリシャ人が築いた植民市(ネアポリス)が起源とされる。ちなみにギリシャ人が植民した南イタリアおよびシチリア島一帯を、古代ローマ人は「マグナ・グラエキア」と呼んだ。
古代ローマ
紀元前3世紀に共和政ローマに併合され、帝政ローマまで続いた。西ローマ帝国が崩壊すると、東ゴート王国に併合され、その後東ゴート王国を破った東ローマ帝国に併合された。8世紀に東ローマ帝国内でナポリ公国が成立した。
ノルマン朝シチリア王国
11-12世紀には南イタリアに進出してきたノルマン人が建国したシチリア王国に併合された。
近代人フェデリーコ2世
12世紀末頃にノルマン朝の王位が途絶えると、紆余曲折あり最終的に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(フェデリーコ2世)が王位を継承した(ホーエンシュタウフェン朝)。フェデリーコ2世は学問や芸術に明るく異教徒の信仰や文化に対しても寛容な、類稀なる近代的な文明人だったとされ、官僚制の整備やナポリ大学の創設を実行した。
アンジュー家とナポリ王国
フェデリーコ2世の死後、1266年に教皇庁の要請を受けたアンジュー家のシャルルに征服され、ナポリはパレルモに代わってシチリア王国の新たな都とされた。1282年シチリア島でアンジュー家の支配に反発した市民の暴動が勃発すると(シチリアの晩祷)、アラゴン王ペドロ3世(前シチリア王の娘婿)が介入し、シチリア島はそのままアラゴン王家に支配されることになった。これによって1302年シチリア王国はアラゴン王家が支配するシチリア島側のシチリア王国と、アンジュー家が支配する半島側のナポリ王国に分離した。
スペイン王家
1435年にアンジュー家の王位が途絶えると、1443年にアラゴン王(兼シチリア王)アルフォンソ5世に併合され、両シチリア王国が復活した。1494年にアラゴン王家の王位が途絶えると、フランス(ヴァロワ朝)のシャルル8世がナポリ王の王位継承権を主張してナポリに遠征し、それに反対するローマ教皇アレクサンデル6世やスペイン王フェルナンド5世などの同盟軍と争った(イタリア戦争)。最終的にフランスは撤退し、1504年にナポリはスペイン王国に併合され、以後約200年間スペイン王国の支配が続く。ちなみにフェルナンド5世とイサベル亡き後、ハプスブルク家に嫁いでいた娘フアナとその息子のカルロス1世(のちの神聖ローマ皇帝カール5世)が王位を継承した(スペイン・ハプスブルク家)。
スペインとオーストリア
1700年にスペイン・ハプスブルク家の王位が途絶えると、遺言によりブルボン家のフィリップがスペイン王(フェリペ5世)に即位したが、それによってフランスおよびスペイン王家が強権化することに反発したイギリスやオランダ、オーストリアなどの同盟軍と争いになった(スペイン継承戦争)。結果的にフランスとスペインが合同しないことを条件に、改めてフェリペ5世の即位(スペイン・ブルボン家)が認められたが、1714年ラシュタット条約によって、スペインの領土だった南ネーデルラント、ミラノ、サルデーニャ、ナポリがオーストリア・ハプスブルク家の領土になった。1733年にポーランド継承戦争が勃発すると、その最中にスペイン・ブルボン家がナポリを奪還した。
ナポレオンとウィーン体制
1796年以降ナポレオンがイタリア遠征を繰り返しイタリアを支配すると、ナポリはナポレオン(の親族に)よって支配された。ナポレオンの死後、ウィーン体制下でナポリは再びスペイン・ブルボン家の支配下に置かれ両シチリア王国が復活した。
イタリア王国
ウィーン体制崩壊後、1860年にガリバルディに征服され、翌年イタリア王国の一部となった。
まとめ
というわけでナポリを支配した勢力を改めてまとめてみると、以下のようになる。
古代ギリシャ植民市→共和政ローマ→帝政ローマ(西ローマ帝国)→東ゴート王国→東ローマ帝国→ノルマン人→神聖ローマ皇帝→アンジュー家(シチリア王国)→アンジュー家(ナポリ王国)→アラゴン家(両シチリア王国)→スペイン・ハプスブルク家→スペイン・ブルボン家→オーストリア・ハプスブルク家→スペイン・ブルボン家→ナポレオン帝国→スペイン・ブルボン家(両シチリア王国)→イタリア王国→イタリア共和国(現在)
ナポリがいかに外国勢力に支配され翻弄され続けてきたかが分かる。現在も残るイタリアの南北問題もこれらの歴史と無関係ではない。